長篠の戦いといえば、歴史の教科書にものっていた織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼の戦いです。歴史上はじめて火縄銃が使われた戦いとしても有名ですね。
愛知県は観光不毛の地と言われていますが、こういう戦国時代の歴史に関する見どころはそこらかしこにあると思います。私はそれほどでもないですが、歴史好きな人にはたまらない場所だと思います。
4月9日、長篠の戦いの古戦場をゆっくりと歩いてきました。
目次
- 戦いの発端となった長篠城跡へ
- 自ら犠牲となった鳥居強右衛門
- 鳶ケ巣山の戦い
- いよいよ決戦の舞台 設楽原へ
- 織田信長の火縄銃隊と馬防柵
- 今も伝えられる戦いの跡
- 血に染まった首洗池
- 死者を葬った信玄塚
- 設楽原歴史資料館を訪ねました
- 長篠の戦いのその後
戦いの発端となった長篠城跡へ
豊橋から飯田線に乗って1時間、まずは長篠城駅で下りました。目指す長篠城跡は駅から歩いて10分ほどです。
写真の左側の川が寒狭川(豊川本流)、右側が宇連川です。その合流地点の三角状になった台地に長篠城がありました。川に挟まれ天然の要塞のような場所です。
長篠城の本丸跡にやってきました。長篠城は長篠の戦のきっかけとなった重要な場所です。
もともと武田信玄に加勢していた地元の豪族奥平氏が信玄の死後、三河の徳川側につきました。そこで徳川から与えられたのがこの長篠城でした。武田氏は信玄の死後、いったん三河から西へ侵攻するのをあきらめていましたが、信玄の息子、武田勝頼は1575年ふたたび軍を西にすすめました。
5月には長篠城を大軍で包囲しました。
15,000人もの兵を擁する武田軍に対し、長篠城を守る奥平貞昌の陣営は500人。しかし自然の要塞のような長篠城に籠城しなんとか持ちこたえますが、いよいよ危なくなってきます。
自ら犠牲となった鳥居強右衛門
そんな状況下の5月14日の深夜、奥平の家臣、鳥居強右衛門(とりいすねえもん)が徳川家康のいる岡崎へ援軍を求めて使いに走ります。武田軍の厳重な警戒を潜り抜けた鳥居は岡崎にいた家康と織田信長に戦況を報告、大規模な援軍の派兵をとりつけます。
そしてこの朗報を一刻も早く長篠城に伝えようとした鳥居は、城の手前で武田軍の兵に見つかり捕まってしまいました。5月16日のことでした。
武田勝頼は、捕まえた鳥居を利用しようとし、鳥居に向かって「今からお前を城の前まで連れて行くから、お前は城に向かって『援軍は来ない。あきらめて早く城を明け渡せ』と叫べ。そうすれば、お前の命を助け、所領も望みのままに与えてやろう」と取引を持ちかけました。
いったんはこれを受け入れた鳥居ですが、実際に城の前へ引き出された鳥居は、「あと二、三日で、数万の援軍が到着する。それまで持ちこたえよ」と、勝頼の命令とは全く逆のことを大声で叫びました。
これを聞いた勝頼は激怒し、その場で部下に命じて鳥居をはりつけにして、槍で突き殺したそうです。
今、長篠城の対岸の鳥居が殺害された地には石碑が建っています。
その横にある説明書き。
鳥居の決死の報告のおかげで、援軍が近いことを知った奥平貞昌と家来たちは、鳥居の死を無駄にしてはならないと大いに士気を奮い立たせ、援軍が到着するまでの二日間、見事に城を守り通すことができたそうです。
鳶ケ巣山の戦い
5月18日、織田軍15,000、徳川軍8,000の援軍は長篠城の3㎞ほど手前の設楽原に到着します。
5月20日深夜、織田信長は本隊とは別の隊を構成し、長篠城の東にある鳶ヶ巣(とびがす)山にいた武田軍の一部に急襲をしかけ、武田の名だたる武将を殺害、武田軍を弱体化、長篠城も開放することに成功します。そして同じ日の未明、戦いは設楽原の決戦にうつっていきます。
勝頼の家臣たちは負け戦を予感して勝頼に軍の撤退を進言したとか。しかし勝頼は聞き入れませんでした。
いよいよ決戦の舞台 設楽原へ
JR飯田線に乗って長篠の戦いの決戦の舞台、設楽原(したらがはら)へ移動します。
最寄りの三河東郷駅で下車します。
駅から歩いて15分ほど、設楽原古戦場にやってきました。丘陵地に小さな川が流れるのどかな場所です。
川は連吾川といい、川の左に織田・徳川軍、右側に武田軍が陣取りました。
古戦場には設楽原をまもる会さんによる「設楽原古戦場いろはかるた」の看板が立てられています。
織田信長の火縄銃隊と馬防柵
また戦いに用いられた馬防柵も再現されています。
この馬防柵が当時最強と言われていた武田軍騎馬隊の勢いを弱め、また馬防柵ごしに織田軍の当時最新鋭の鉄砲隊の火縄銃が火を噴きました。
鉄砲の威力の前にさすがの騎馬隊もなす術がありませんでした。
織田・徳川軍から追撃された武田軍は10,000名以上の犠牲(鳶ヶ巣山攻防戦も含む)を出して、織田・徳川軍の勝利で合戦は終結しました。
今も伝えられる戦いの跡
こちらは武田の武将、土屋昌次がここで戦死したことを示す石碑。
例のいろはかるたにもなっています。なかなかこのいろはかるたが怖いです。
織田・徳川軍に主だった武将の戦死がなかったにもかかわらず、武田軍は武田四名臣と言われた信玄時代からの家臣、山県昌景、馬場信春、内藤昌秀をはじめ、原昌胤、原盛胤、真田信綱、真田昌輝、土屋昌続、土屋直規、安中景繁、望月信永、米倉丹後守など多くの名だたる武将たちが命を落としました。
武田勝頼及び武田軍は命からがら敗走していきます。
原昌胤が戦死した場所を示すいろはかるた。
甘利信康の戦死した場所に立てられたいろはかるた。
血に染まった首洗池
近くには小さな池がありますが首洗池と名づけられています。この池で戦死者の首を洗って池の水は赤く血の色で染まったとか。
いろはかるたにもなっています。
死者を葬った信玄塚
首洗池の近くには信玄塚という長篠の戦での戦死者を葬って弔った大小二つの塚があります。
こちらが竹田軍側の死者を祀った大塚。今も地元の竹広地区では戦死者の霊を鎮めるために、戦いから400年たつ現在も毎年8月15日に火おんどりという祭りが行われます。
織田・徳川軍を祀った小塚のあたりに咲く見事な桜。
設楽原歴史資料館を訪ねました
信玄塚のすぐ横には新城市立の設楽原歴史資料館があります。
コロナウィルスの感染拡大で営業されていないかと思いましたがオープンしていました。
長篠の戦と火縄銃について学べる施設で、展示される火縄銃の数はおそらく日本一でしょう。
こちらが日本最古の火縄銃とされる信玄砲。貴重な戦国時代の火縄銃です。
屋上からはさきほど歩いた設楽原が一望できます。この資料館は武田軍の陣地があった場所になります。向かい側の丘陵が織田・徳川軍です。
長篠の戦いのその後
長篠の戦い後、武田氏は徐々に勢力を失っていき、織田信長は天下を取る者として名を馳せ勢力を拡大していきます。
武田勝頼は長篠の戦いから7年後の1582年の3月11日、織田・徳川・北条氏による甲州征伐で捉えられ自害します。享年37歳でした。
しかし同年の6月2日、織田信長は本能寺の変にて48歳でその人生を終えることになります。時代はめまぐるしく変わります。