東北5県をかけ足で巡る一泊二日旅行の記録です。
北上駅
初日、家を朝5時40分に出て、8時20分発の飛行機に乗って仙台に入りました。飛行機は平日にも関わらず満席。
仙台からは東北新幹線で岩手県の北上に移動しました。
北上には11時45分に到着しました。
大きな絵が描かれた北上駅西口の改札口です。
北上市は人口9万2千人の町です。岩手県内では盛岡、一関、奥州、花巻に次いで5番目に大きな町です。
今回の旅行でいくつかの町を訪ねる予定ですが、北上では次の列車の時間まで、2時間の猶予があり、駅周辺をサクッと観光しようと思います。
なかなか忙しい旅ですが、ゆったりとした温泉旅行とかは年とってからでもできるので、今のうちに可能な限りいろんなところに行っておきたいですね。😀
駅前のビルに入っている北上観光コンベンションセンターで自転車を借りました。
シティサイクルは4時間以内300円です。ヘルメットも貸してもらえました。自転車はメーカー品のマルイシ製で3段変速。
桜の名所 展勝地
駅の東側、橋で北上川を渡ります。
ゆったりとした流れの北上川。
日本で4番目に長い川で、北上市あたりで河口から100kmもあるのに標高は100m程度という、日本の川にしてはかなり勾配がゆるいのが特徴。
北上川の東岸にあるのが展勝地という東北でも有数の桜の名所です。
4月にはこんなふうに桜が咲くそうです。
こちらの桜の木は一本一本が見事な大木でした。まだ菜の花が咲いていました。
いたるところでツツジも咲いていて、私の住んでいる愛知と比べると3週間くらい季節の進みが遅いような気がしました。
東北はなぜか白いツツジが多いですね。私の近辺では白もありますが、赤紫やピンクばっかりです。
公園には蒸気機関車の静態展示がありました。
みちのく文化村
展勝地に隣接して、みちのく民俗村があります。北上市では人気の観光施設のようです。
昔の東北地方、主に旧南部藩と伊達藩領内の民家を移築し見学できるようにした屋外博物館です。
入場は無料です。
みちのく民俗村は、北上川流域とその周辺の茅葺民家を移築復元した東北有数の野外博物館です。
山間約7ヘクタールの敷地に、南部曲り家などの茅葺民家10棟のほか、大正建築の佇まいを残した旧黒沢尻高等女学校の校舎など18棟、合計28棟が点在しています。旧黒沢尻高等女学校の校舎には多数の民俗資料も展示しています。
みちのく民俗村 -Michinoku Folkrore Village- [公式ホームページ]
ほぼすべての建物を見学しましたが、ここで紹介するのは一部にとどめておきます。以下の引用部分はすべて公式ホームページからです。
旧菅野家住宅
みちのく民俗村内にある唯一の国の重要文化財である旧菅野家住宅をまず見ることにしました。
旧菅野家は、江戸時代、南部領と境を接する伊達領側の村(下口内村)にあった上層農家です。伊達領の住宅規定が書かれた「御郡方式目」(享保4年・1719)との照合から、大肝入(村長のなかでもさらに上役の村長)のものと考えられています。
伊達領の肝入(村長)以上には苗字・帯刀・門の設置が許されていたといわれます。旧菅野家にも享保5年(1720)の棟札をもつ立派な薬医門がありました。
伊達藩領内の建物です。伊達藩は仙台藩と同義で、伊達政宗以降、伊達家が廃藩置県となるまで治めていました。
現在の県境とは異なり岩手県南部も領地でした。
母屋と同様に重文指定の薬医門です。
茅葺きの母屋です。
囲炉裏のある台所です。
道祖神
立派なち○この形をしたのは昔の道祖神だそうです。
金精像と言うそうですが、江戸時代にはち○こ像がいたるところにあったのか?😅
奥日光に金精峠というところがありますが、ち○こ峠なのでしょうか。いろいろ疑問がわいてきました。
旧黒沢尻高等女学校校舎
民俗資料館(旧黒沢尻高等女学校校舎)
旧黒沢尻高等女学校の校舎を移築して、中に農作業道具、手仕事、生活用品、信仰関係などの民俗資料を展示しています。北上地方の昔のくらしを知ることができます。
現在の岩手県立北上翔南高等学校(県立黒沢尻南高等学校)は、県立黒沢尻高等女学校を引き継いだものです。その前身である黒沢尻実科女学校は、大正8年創立でこの地域の女子教育を担っていました。
黒沢尻というと高校ラグビー(黒沢尻工業高等学校)のイメージがありますが、また違うんですね。
ちなみに黒沢尻は今の北上市中心部のあたりらしい。
内部では農耕具など昔の道具が展示されていました。
藁で編まれた昔の靴ですね。これなら雪の日も大丈夫そう。
また北上市消防資料館もあります。
昭和初期の消防車です。
こちらはトヨタ製のようです。
旧小野寺家
小野寺家は岩手県でも北部の民家。
旧小野寺家は、北上川上流の水系・荒木田川が流れる県北地域にあり、明治時代後期に建てられた農家です。
旧小野寺家も、豪雪農家の旧菅原家と同じ直ご家で、家の中に馬屋があります。馬産地である旧南部領では、いずれの形状でも馬が大切にされていたことがわかります。
また、旧小野寺家の間取りを見ると、寝部屋のように日常生活に欠かせない空間が非常に狭く、まだまだ江戸時代の封建的な考え方を踏襲していたことがうかがえます。
内部は大空間すぎて冬は寒そう。
旧北川家
遠野市街地から北東約7kmの土淵町にあった旧北川家は、江戸時代の山伏(修験者)の家です。山伏とは、修験道という山岳信仰(仏教の一派)に基づき修行する人のことです。
旧北川家は「遠野物語」にも触れられており、由緒ある山伏の家だったことやオシラサマを数多く祀る家だったことが記されています。
曲り家の曲がっている部分、馬を飼っている場所です。
このあたりでガイドボランティアの年配の男性がやってきました。なかなか元気な方です。
入場時に売店のおばさんから「どっから来なさった?」と尋ねられ、「愛知からです」と答えたからみたい。そのことを聞いたんですね。
えらく遠方から人が来たので、これは案内しなくてはと、園内の私を探してきてくれたようです。
間ノ沢
せっかくなので旧南部藩と伊達藩の関係について説明していただきました。
みちのく民俗村の敷地内に小さな沢があり、江戸時代にはこの沢が南部藩と伊達藩の境界になっていました。
村内では幟が建てられて、今いるところが南部藩か伊達藩かどちらかわかるようになっています。
ここは伊達藩ですね。
南部藩と伊達藩は今で言うところの水利権を巡ってイザコザが絶えなかったそうです。
沢は間の沢と呼ばれています。
お駒堂
そこで争いを避けるためにも藩境を厳密に決める必要がありました。
お駒堂もそのための施設です。
「藩境の起点」 お駒堂(旧状復元)
旧所在地胆沢郡金ケ崎町大字西根字駒ヶ岳 駒ヶ岳(標高一二九m)は、西暦八〇二年に築城された胆 沢城の真西にあり、「駒形神」の鎮座する山として古代から崇められてきました。 山頂のその社が通称「お駒堂」です。
江戸時代、南部藩と仙台藩との領地境は、西の起点を駒ヶ岳 とし、お駒堂は両藩折半で修理・改築することがとり決められ ました。 この本尊は馬頭観世音でした。
以来、岩崎と西根(金ヶ崎)に里宮が置かれ、春、山頂に浮 びあがる文字や駒の形も農事のめやすとされ、両藩の深い信仰 地となりました。
明治となり、水沢に駒形神社本社が定められ、お駒堂はその 奥宮となりました。
昭和45年、お駒堂は激しい風雪に耐えられず、コンクリート製のお堂に改築されました。
伝統あるお駒堂は神社建築としても貴重であり、藩境の歴史を伝える文化財としても大切であり、ここ間の沢に再現したも のです。
藩境は奥羽山脈の駒ヶ岳から釜石付近の太平洋まできちんと境界が定められており、西側の起点の駒ヶ岳にあったのがこのお駒堂ということです。
間の沢はさみ塚
また藩境の要所には塚が設けられました。塚の内部には、絶対に腐ちることのない木炭が埋められているそうです。
間の沢の塚は、沢をはさんで南部、伊達の両側に相対するようにそれぞれ設けられているのではさみ塚と呼ばれていました。
乗り遅れた
みちのく民俗村は無料にも関わらず、なかなか見ごたえのある施設でした。
屋根の葺き替えでも一回一棟あたり2,000万円くらいかかっているとガイドさんはおっしゃっていました。
実際に人が住んで囲炉裏を使ったりもしていないので、茅に虫がつきやすく通常より痛みが早いそうです。
ちょっと勘違いもありつつ真面目に見学したこともあって、13時42分発の北上線に乗り遅れてしまいました。
次の汽車は16時48分発。2時間半ほど時間があるので予定変更し、隣町の花巻市へ行って時間を潰すことにしました。😅
つづく。