アリとキリギリスの話は有名なイソップ寓話です。
Wikipediaよりあらすじを引用させていただくと
夏の間、アリたちは冬の食料を蓄えるために働き続け、キリギリスはバイオリンを弾き、歌を歌って過ごす。やがて冬が来て、キリギリスは食べ物を探すが見つからず、最後にアリたちに乞い、食べ物を分けてもらおうとするが、アリは「夏には歌っていたんだから、冬には踊ったらどうだい?」と食べ物を分けることを拒否し、キリギリスは飢え死んでしまう。
けっこうある意味残酷な話です。
でも小さいころにこの話を読み聞かされて、働くってことは大事なんだ、将来に備えて準備することは大事なんだと思った人も多いかと思います。
この物語には2つの教訓があります。これもWikipediaより引用させていただきます。
この寓話には二つの寓意がある。一つは、キリギリスのように将来の危機への備えを怠ると、その将来が訪れた時に非常に困ることになるので、アリのように将来の危機の事を常に考え、行動し、準備をしておくのが良いというもの。 二つ目は、アリのように夏にせこせことためこんでいる者というのは、餓死寸前の困窮者にさえ助けの手を差し伸べないほど冷酷で独善的なけちであるのが常だ、というものである。
何百年も前の話ですが根源的には現代の問題と何ら変わっていないと思います。
一つ目の教訓は誰もが知っているものと思います。
でも二つ目の教訓は案外見逃している人が多いのではないでしょうか。
「アリとキリギリス」の話からセミリタイアについて私なりに考えてみたいと思います。
まずひとつに、はたしてセミリタイアはアリなのかキリギリスなのかという問いがあります。
セミリタイアに向けてコツコツ資産を貯めるところはアリだと思うのです。
でも大多数の人々がまだ働いているのに、早々にリタイアして自由な時間を満喫するところはキリギリス的行為だと言えます。
でも根本的にはセミリタイアする人はアリ体質なんでしょうね。
セミリタイアする人はある意味資産を増やすことにストイックで計画的で、キリギリスような無計画さ、快楽主義、刹那的生き方とは対称的です。
そしてこれは二つ目の教訓から学ぶことですが、私も含めてセミリタイアする人は苦労して資産を貯めた分、たとえば他人が金銭的に困っていてもそれは自己責任だろうと思いがちになりやすいと思うのです。
セミリタイアしない普通の人よりその傾向は強いと思います。
なぜなら普通の働いている人なら多少お金が減っても働いて取り戻せばいいと考えますが、セミリタイア思考の人は資産を守ることに執着しがちです。
事実、このセミリタイアカテゴリーのブログでもお金の話は大人気です。
そして例えばここ2~3日の生活保護費の削減の政府案に反対を主張している人たちに対して、ある種の憎悪や苛立ちを感じている人も多いかと思います。
なんで自分たちは苦労してお金を貯めているのに、自分たちが払っている税金から生活保護費が払われなければならないんだという思いがそうさせます。
ただやはり私たちはイソップ童話のように、冷酷かつケチになる傾向があると知っておかないといけないとは思うのです。
そしてそれを心に留め、普段から注意していないと、そのケチや冷酷さが行き過ぎてしまう恐れがあります。
実生活ではセミリタイア実現またはセミリタイア生活維持のために削ってはいけない部分まで支出を削って、清貧と言われるくらいで済むものならいいですが、他人からケチの極みといわれるくらい本当に人間性まで貧しくなるのはいかがなものでしょう。
他人からどう見られるか気にしてはセミリタイアできないという考えもありますが、ケチすぎて他人に不快な思いまでさせてセミリタイアするのもどうかと思います。
意外とそれは自分では気づかないことなのかもしれません。
現在、世の中は自己責任論が主流になりつつあります。
困っている人がいてもあまり助けない世の中になってきています。
寛容か不寛容かといえば不寛容な社会です。
ちょっとギスギスしていますかね。
本当のどうしようもないキリギリスなら助ける必要が無いかもしれませんが、一時的に困窮にあえぐキリギリスを助けることによって彼ら彼女らが復活するなら、正しい道に戻る可能性があるなら助けを差し伸べてもいいかもしれません。
今回はセミリタイアに批判的ともとれる意見を書きましたが、これは自分に対する戒めでもあります。