近鉄四日市駅西口から徒歩3分、四日市市立博物館にやってきました。
プラネタリウムもありますが、目的は四日市公害と環境未来館。プラネタリウムは建物の5階、環境未来館は2階にあります。
四日市公害と環境未来館はエレベーターでまず3階に上がります。
3階は常設展コーナーです。
丹羽文雄記念室
まず四日市が生んだ文人、丹羽文雄記念室です(写真撮影不可)。丹羽文雄は明治37年生まれ、100歳で平成5年没。芥川賞の選考委員や日本文芸家協会会長も務めたそうです。
丹羽文雄、知らないな~。😂
常設展 「時空街道」
同じ3階に「時空街道」があります。
「時空街道」とは何ぞやと思いましたが、人形で古代から近代までを再現するコーナーのようです。
両親に不満をぶちまけている老けた顔の息子?
キノコがありますが、縄文時代は毒キノコにあたって死んだ人はめちゃくちゃ多いんでしょうね。
中世の市場を再現したコーナーです。
戦国時代には四のつく日に市がたつようになり、四日市の名の由来となったそうです。
時代は江戸時代にとんで四日市宿の再現コーナーです。四日市は東海道の宿場町、および伊勢参りのルート上にあり、大変栄えたそうです。
旅籠の客と女中。
なぜこの顔の人形を作ろうかと思ったのか。リアルと言えばリアル。
江戸時代は講と呼ばれる団体旅行が盛んだったんですね。
四日市名物、焼き蛤のお店を再現。
四日市公害と環境未来館
2階にある四日市公害と環境未来館にやってきました。
明治以降の四日市港を中心とした町の発展と、戦後の石油コンビナートの形成、高度成長期の四日市公害に関する資料を展示しています。
戦前の四日市には第2海軍燃料廠があったんですね。戦争中は当然、アメリカ軍の空襲により大きく破壊されました。
戦後、その跡地に石油コンビナートが作られていきました。
高度経済成長期では経済成長重視で、環境は顧みられることがなく、煙突から有害物質がどんどん吐き出されていきました。時に昼間でも車がライトをつけて走ることがあったそうです。
最初は大規模な雇用先が誕生して喜んでいた四日市の人たちでしたが、汚染された空気のせいで、ぜんそくになる人たちが多く出てきました。
四日市ぜんそくは、大気汚染による集団喘息障害で、水俣病、イタイイタイ病、新潟水俣病とあわせて、四大公害病の一つになっています。
なかなか自分が病気に罹患してみないとその苦しみはわかりませんが、四日市ぜんそくも大変苦しいものだったそうです。
ぜんそくの発作による死者も出て、自殺を選ぶ人も出たそうです。
公害マスクをして登校する児童です。時代と理由こそ違えど、最近も同じですね。
(将来は博物館で、2020年代前半、コロナウィルスでみんなマスクをつけるようになったと振り返ることも出てくるんでしょうね。)
健康被害に苦しむ住人が続出したわけですが、当時はまだ公害対策の法律もありませんでした。住民の一部は裁判を起こしました。
しかしながら、当時の公害関係の法律ではぜん息の原因を特定して補償を受けることができるようなしくみはありませんでした。
そこで、ついに患者の中の9人が健康被害の補償を求めて工場を訴える裁判を起こしました。5年かけて続いた裁判は、住民の後押しもあり患者側の勝訴で終わりました。
この裁判によって工場の煙が四日市ぜん息の原因と認められたのです。 また、裁判では工場だけでなく、国や県、市の責任も指摘されました。
この結果、国では患者の補償のための法律が整備されることになりました。企業においても、これまで以上に、工場での公害を防止する技術の研究や開発が行われるようになりました。
歴史を大きく変えた裁判ですね。行政も本腰をあげて対策しなくてはいけなくなりました。
私が小学生の頃(1970年代)は、60年代に比べてだいぶ改善が進んでいったのでしょう。
四日市公害について記述のある、小学校5年生の社会科教科書です。最近のものなのかな?
硫黄酸化物の排出の少ない良質な燃料の使用や、脱硫装置の設置などが進み、四日市の大気は大きく改善されました。
工場や事業所に起因する健康被害を起こすような大気汚染は、いまや全国でもほとんど無いのかもしれないですね。
逆に中国からの黄砂やPM2.5が有害なくらい。
原発処理水の問題をごちゃごちゃいう中国に対して、PM2.5を飛ばしてくるなと言いたいです。海洋ゴミもたいがいにしろと言いたいです。
四日市公害と環境未来館は、かなり見ごたえのある展示内容でした。映像資料など真剣に見ると3時間くらいはかかりそう。