仙台市地下鉄東西線の終着駅、荒井駅です。
せんだい3.11メモリアル交流館
荒井駅の駅ビル内に「せんだい3.11メモリアル交流館」があります。
その2階に東日本大震災に関する資料室があります。
2011年3月11日は私は愛知でふつうに仕事をしていました。
愛知でも船に乗っているような長い周期の揺れを感じて、これはきっと遠くのほうで大きな地震が起きたに違いないと思いましたが、報道で知るまでここまで大きな地震だとは思わなかったですね。
これから見学に行く仙台市立荒浜小学校の写真がありました。
現在は震災の記憶を未来に伝える展示施設として生まれ変わっています。
メモリアル交流館には児童館も併設されていますが、そこに通う震災を経験していない子供たちがこの展示を見て何か感じてくれればいいんでしょうね。もちろん大人もですが。
荒浜小学校へのアクセス
荒浜小学校へは仙台市営バスで向かうことができます。
1時間に1本の運行です。
私はバイクシェアで自転車を借りて向かうことにしました。ドコモバイクシェアのアプリで借りることができました。最初の1時間が165円で、その後30分毎に165円が追加されます。
電動アシスト自転車です。
途中の道
このあたり仙台市の若林区で比較的新しい建物が目立ちます。荒井駅の手前あたりまで津波は到達したので、このあたりは津波が来たか来ないかの境目あたりだと思います。
荒浜小学校へは仙台東部道路の下をくぐっていきますが、この道路は津波が市街に侵入するのを阻止する働きがかなりあったそうです。
また、この道路ののり面を駆け上がって避難し助かった人が約230人いたそうです。
しばらく行くと市街地を抜けました。津波避難方向を示す標識があります。
山が見えるときは避難方向がわかりますが、天候などで見えないときは分からない人も出てくるでしょうね。特に他の地域から来た人などですね。
津波避難施設もありました。ここでも海岸からは2㎞くらい離れていると思われます。
自転車で20分くらい走ったでしょうか、荒浜小学校が見えてきました。
仙台市立荒浜小学校
震災遺構仙台市立荒浜小学校です。海岸から約700mの距離にあります。
震災当時荒浜地区は800世帯2,100人が住んでいましたが、津波で186人が亡くなり、建物は荒浜小学校を残してすべて津波で流されたそうです。
津波が押し寄せて車などが流されていくヘリコプターからの映像を覚えています。
荒浜小学校に避難できた人は助かったわけですね。2011年3月11日は金曜日、生徒は登校していたんでしょうね。
2階には津波到達高さを示す看板がありました。
三陸海岸のようなV字型の入り江の奥で津波の高さが増幅されるという話は聞いたことがありますが、仙台湾のような開けた海岸線でここまでの高さの津波が来るのはなかなか想像しがたいです。
1階
保健室に車3台が津波で流されてきたそうです。
見学者入り口とその上にある津波で破壊された手すり。
校舎東側は津波をまともに受けた面になります。
説明を受けるには予約が必要で、この日は誰も係員の方はいらっしゃいませんでした。自由見学です。(入場無料)
1階はすべて水没したので天井までボロボロです。
瓦礫を片付けるだけでも大変なことだったと思います。
冬の陽の光が差し込む教室。時が止まったようです。
各言語のパンフレットが用意されていました。
2階
1階から2階へ上がる階段です。ここも瓦礫で埋め尽くされたようです。
先ほど下から見上げた2階の破壊された手すりです。
荒浜小学校には4.6mの津波が襲ったんですね。
2階廊下にも津波到達高さの表示がありました。膝下くらいでしょうか。
スチール製のロッカーはその高さで錆が発生しています。
2階の天井まで津波の波しぶきがかかったようです。
1977年の荒浜地区の写真ですが、海岸の松林の内側にかなり家が密集していたことがわかります。2011年でもこんな感じだったのでしょうか。
4階
14時16分に地震発生。15時55分に校舎に津波が到達。
当時学校に置いてあった避難グッズ。
荒浜地区の模型。やはり先ほどの写真とほぼ同じです。荒浜小学校は集落の一番北(手前)にあったことがわかります。
荒浜地区の海岸は深沼海水浴場という仙台市唯一の海水浴場だったそうです。
屋上
屋上も開放されていました。
700m先の海。穏やかに見えます。
荒浜地区のあった方向ですが、ほぼ何もない空き地になっています。
震災当日、避難者はここから自分の住む町が流されていく様子を呆然と眺めるしかなかったのでしょう。
仙台市中心部の方向の眺め。
外にあった二宮金次郎像。
津波で台座ごと100m流されたそうです。