東日本大震災で原発事故のあった周辺地域を訪れました。
※いろいろ調べて記事を書いていますが、間違っている箇所があるかもしれません。間違っていたらすみません。
- 現在の帰還困難区域
- 帰還困難区域を走る常磐線
- 夜ノ森駅とその周辺
- 夜ノ森桜並木
- 富岡町役場周辺
- 富岡アーカイブミュージアム
- 国道6号線周辺
- 東京電力廃炉資料館
- さくらモール
- 富岡駅周辺
- 富岡駅
- まとめ
現在の帰還困難区域
こちらの地図は現在の福島県の帰還困難区域(ピンクの部分)を示すものです。事故発生時の風向きの影響のせいなのでしょうか。原発のある太平洋岸から北西に向かって内陸部へ広がっています。
帰還困難区域の南東の端にあるのが富岡町です。
こちらの記事は、帰還困難区域の富岡町の一部が立ち入り自由になることを伝える今年1月26日のニュースです。
福島県富岡町は、帰還困難区域のうち、かつて住宅街だった夜の森地区など390ヘクタールの地域で、先行して除染やインフラ整備を行い、来年春に避難指示を解除することを目指しています。
この地域では、これまでは許可をとったうえで、午前9時から午後4時までの間しか、立ち入ることができませんでしたが、26日から規制が大幅に緩和され、24時間自由に立ち入りができるようになりました。
26日は午前9時にバリケードが撤去され、避難先から訪れた車などが次々と中に入って行きました。
部外者が訪れても問題なさそうなので、3.11を前に富岡町をこの目で見てくることにしました。
この日歩いたルートマップです。夜ノ森ー富岡駅間、約5.2kmです。
帰還困難区域を走る常磐線
この日(3月8日)は仙台空港に降り立ち、東北本線、常磐線で富岡を目指しました。
南相馬市の原ノ町駅でいわき行の電車に乗り換えます。
浪江駅
2020年の3月14日、それまで不通だった浪江ー富岡間が運転を再開し、常磐線が全線開通しました。
浪江駅は浪江町の玄関口で、むかし私がテレビでよく見ていた鉄腕DASHのDASH村は、浪江町の山間部にあったそうです。現在も帰還困難区域内にあります。
浪江駅から先は帰還困難区域の核心部分です。浪江駅で7~8人下車していきました。駅前の駐車場には車も複数台止まっていて、まだ人の気配がします。
双葉駅
双葉町の玄関口の双葉駅です。福島第1原発から4㎞の距離にあり、いまだに帰還困難区域内ですが2020年3月以降、駅周辺の一部のみ解除されているそうです。
大野駅
大熊町内にある大野駅です。こちらも原発から約4㎞の距離。
大野駅も帰還困難区域内ですが、双葉駅と同様、駅周辺の一部のみ解除されているそうです。
このあたり、どこも常磐線の全線開通に合わせて駅舎が新築されたようです。きれいです。
ぱっと見たところ下車した人はいなかったような。
夜ノ森駅とその周辺
私は次の夜ノ森(よのもり)駅で下車しました。今回24時間自由に立ち入りできるようになった富岡町夜ノ森地区の玄関口です。
私以外にもう一人、オジサンが下車しました。
夜ノ森駅の駅舎も新しそうです。双葉駅や大野駅と同様、駅前通りなど駅周辺のごく一部は2020年3月に解除されています。そして今回の全面的な解除です。
駅には立派なトイレがありました。静まりかえっていますが、一日何人くらいの人が利用するのでしょうか。
震災当時の夜ノ森駅の写真が飾られていました。
駅前の商店だった建物前の自販機です。おそらく当時から手つかずのまま。11年前のドリンクが中に残っているのでしょうか。
郵便ポストにはビニールがかけられています。
ゲームセンター理想郷
ゲームセンター理想郷。理想郷にはほど遠い現実がもの悲しいです。
JAふたば富岡支店
JAふたば富岡支店の建物がありました。変な低木や雑草が生えたまま放置されています。
窓ガラスが割れていました。
中をのぞくとこんな感じ。パンフレットスタンドにあるパンフレットは11年前のもの? 廃墟化しています。
窓ガラスの割れたままの建物がありました。夜ノ森駅周辺にはこのような住宅が多くありました。
屋根がこわれたままの住宅。
震災直後はかなり県外から窃盗犯がこの地域を訪れたそうですね。今も窃盗犯罪は確認されているそうです。住民の帰還とともに窃盗の認知件数があがっている側面もあるようです。
下記ニュース記事によると一人で500軒も忍び込んだ悪党も。
ヤマザキショップ
ヤマザキショップも閉じられたままでした。
解除から時間がたっているためか、帰還困難区域を区切るバリケードの類はもう見られませんでした。
何かの仮設の建物がありました。
レストランと美容院が入った建物です。
美容室センチュリー21。
夜ノ森桜並木
1500本の桜が2.5㎞にわたって続く夜ノ森の桜並木。
震災前はともかく、去年まではひっそり咲いていたのでしょうが、この春からは花見客も訪れそうです。
もちろんまだ咲いていません。
桜並木を南に向かって歩きます。周囲は住宅地で、少し人の気配がします。
ゴミステーションには新しそうなゴミが置かれていました。
売り地の看板。
さらに歩きます。
富岡町役場周辺
しばらく行くと広い農地に出ました。
農地では葱のようなものが植えられていました。おそらくこのあたりは早めに帰還困難区域が解除されていた地区なのでしょう。
富岡カントリーエレベーター
富岡町ですが南下するにつれ、立派な施設が目立ちます。
カントリーエレベーターとは農産物を貯蔵する共用倉庫のことらしいです。
富岡町役場
富岡町役場です。震災以降、郡山市に仮庁舎があったのを、2017年4月1日にこのあたりが帰還困難区域から解除されたのを期に業務を再開したようです。
富岡町文化交流センター学びの森
こちらは富岡町文化交流センター学びの森。とても立派な施設です。富岡町には東京電力福島第2原子力発電所があるため、交付金施設として建設されたそうです。新しそうに見えますが2004年オープン。
廃炉環境国際共同研究センター
廃炉環境国際共同研究センター。
グーグルマップを見ているとこのような廃炉作業に関連する機関や施設が、帰還困難区域の内外に複数見られます。
富岡アーカイブミュージアム
文化交流センター学びの森の向かいにある富岡アーカイブミュージアムは一般に開放されている施設です。
こちらも電源立地地域対策交付金で建設された施設のようです。小さな町にそぐわない非常に立派な施設です。
2021年7月1日にオープンした施設なので、震災後の建設になります。復興事業のひとつでしょうか。
見学は無料です。
アーカイブと言うことで震災関連の展示だけかと思いましたが、古代からの富岡町の歴史も紹介されています。
やはり見どころは震災関連の展示。
震災前に配布されていたいざという時の避難施設リスト。まさか本当に避難が必要になって、しかも長期にわたって帰れないとは、誰も想像だにしていなかったことでしょう。
震災時、富岡川河口付近で住民の避難誘導にあたっていて津波に飲み込まれたパトカーの残骸。警官2人が殉職されたそうです。合掌。
災害対策本部の部分再現。
津波を受けた富岡駅の改札口のゲート。当時のものがこちらで保存されています。
震災当時の時計の数々。地震が発生した2時46分を示す時計が多いですが、それ以外の時間で停止しているものがあります。
正式な防護服ではないと思いますが、放射性物質の付着を防ぐために用いられたタイベック。
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国道6号線の横断歩道橋にながらく掲げられていた「富岡は負けん!」の横断幕。
こちらではマンホールカードが配布されていました。コレクターもカードを貰うだけでなく、ちゃんと見学して欲しいものです。
国道6号線周辺
富岡川にかかるせきれい橋。富岡町の中心部に入っていきます。
東京電力廃炉資料館
国道6号線沿いに東京電力廃炉資料館がありました。
かなり興味がありましたが、新型コロナウィルスのため残念ながら臨時休館でした。
さくらモール
同じく国道6号線沿いにさくらモールという商業施設がありました。
駐車場には買い物客の車が多く止められていて、ちょっと現実に戻ってきた感じでホットします。
ダイユーエイトです。福島県におけるホームセンターの雄ですね。
ツルハドラッグとヨークベニマルも入っています。
ラーメン浜鶏
フードコート内にあるラーメン店の浜鶏(はまどーり)。このあたりの浜通りとかけているみたいです。
せっかく来たので地元にお金を落とそうと思い、店の看板メニューらしき浜鶏ラーメンを食べることにしました。
食券制です。
いただきます。
鶏チャーシューがおいしい塩ラーメンでした。
富岡駅周辺
駅に向かう途中、新しそうな集合住宅がありました。栄町団地とあります。町が建設した災害公営住宅です。
復興はよくインフラ整備や箱もの建設ばかりという話も聞きますが、インフラもないと人も住めませんし、ある程度は地元に雇用も生まれているでしょうから一概に批判することもできないかもしれませんね。
さきほどのさくらモールのように民間の施設がどんどん誕生してくればいいと思います。
富岡駅
ゴールの富岡駅です。こちらも新しそうな立派な駅です。
駅からみた海岸です。かなり海から近いのがわかります。しかも土地も低い場所にあるので津波被害を受けたことも納得します。
広大な空き地が広がっていますが、もともと海岸と駅の間には町があったのでしょうか?
防潮堤が建設されたようです。
再び常磐線に乗って今度は水戸に向かいます。
まとめ
約2時間半という短い時間でしたが、富岡町をざっと歩いてみました。
富岡町では震災発生時には約1万6千人だった人口が2020年8月1日現在1,489人。1割以下です。
何をもって復興したと言えるかは難しいとは思いますが、やはり住民の数がある程度増えてこその復興だと思います。(せめて以前の半分とか)
今は廃炉作業や復興関連事業の建設関連の人が一時的に滞在することが多そうですが、住民が定着するためにはやはり産業というか仕事がないと厳しいかと思います。
そういった面で箱モノやインフラ整備もいいですが、安定して雇用を生み出す企業や工場などの誘致は大事かなと思った次第です。