4月9日のことです。JR東海道本線の関ケ原駅にやってきました。
関ケ原駅
線路わきに以前からある、関ケ原における東軍と西軍の主な武将を紹介した看板です。
今回は2020年に新しくオープンした関ケ原古戦場記念館に行ってみようと思います。
こちらはおそらく記念館開館にあわせて取り付けられた看板だと思います。やたらとカッコよく描かれた絵とともに武将を紹介しています。東軍の大将、徳川家康。
西軍の石田三成。変わった家紋?ですね。
西軍の大谷刑部こと大谷吉継。越前敦賀城主。盲目だったと伝えられています。
東軍の黒田長政。筑前国福岡藩初代藩主。
東軍の福島正則。関ケ原の戦いの後、安芸広島藩藩主になりました。
西軍の小早川秀秋。途中で東軍側に寝返り、関ケ原の戦いの東軍勝利を決定づけたキーパーソン。
西軍の島津義弘。西軍でしたが、傍観するだけで東軍と闘うことはありませんでした。
東首塚
記念館と駅の間にある東首塚です。
おびただしい数の戦死者は、この東首塚と西首塚に集められ葬られたそうです。
関ケ原古戦場記念館
関ケ原古戦場記念館です。
関ケ原は全国的な知名度はあるわりには、これまで観光の拠点が無かったと思いますが、記念館の開館で全国の歴史ファンが訪れる場所ができたと思います。
1階 映像展示コーナー
入館料500円です。映像展示(グラウンド・ビジョン並びにシアター)は 事前予約制となっていますが、ピンクの札は飛び込みの見学希望者であることを示します。
予約者からの優先入場です。
映像展示への入り口です。コロナのためおそらく人数制限がかかっていたと思います。映像展示は写真撮影禁止。
2階展示コーナー
2階は関ケ原の戦いに関する展示です。写真撮影は禁止です。先に映像で戦いの流れを学習しているので、展示パネルを見てもわかりやすい。
甲冑の展示もありました。
2階の一部に体験コーナーがあり、火縄銃や大筒などを手に取ってみることができます。
またお子様向けの武将に変身写真撮影コーナーなどもありました。
体験コーナは写真撮影可。
5階展望室
3階はセミナールームで一般見学者には解放されていません。4階は縁起が悪いからか最初から無くて、最上階が5階になります。
5階は関ケ原全体を眺めることができる展望室となっています。
正面の笹尾山のふもとに石田三成の陣がありました。のちほど歩いて行ってみます。
記念館は500円のわりに見どころが多くて良かったですね。関ヶ原の戦いについて貧祖な知識しか持ちあわせていませんでしたが、だいぶマシになった気がします。
レストラン&ショップ
記念館の隣りにあるレストラン&ショップです。
私はケチケチなので家から弁当を持ってきていますが、武将カレーとかおもしろそう。
関ケ原にちなんだお土産もいろいろ売っていました。
徳川家康最後陣跡
記念館の隣に徳川家康最後陣跡があります。
当初は東側の桃配山に陣をかまえた家康ですが、戦いの進行にあわせて最終的にここまで大軍を進めてきました。
関ケ原決戦地
決戦地に行ってみます。
のどかな田園の中を歩きます。
こちらが決戦地です。関ケ原の戦いで最も激しい戦いが行われた場所になるそうです。
笹尾山を背に、現在は田園の広がる中程に「決戦地」があります。ここには大きな石碑、徳川家・石田家の家紋入りの旗があり、休憩所もあります。1600年9月15日午前、関ケ原の戦いは西軍有利の展開で進んでいたといわれています。
しかし、小早川秀秋の裏切りによって状況は一変します。これによって、一挙に東軍が優勢となり、奮闘むなしく西軍は敗北します。
そしてこの決戦地は、東軍諸隊が三成の首級を狙って、最大級の激戦が繰り広げられた場所といわれています。この地で激戦が繰り広げられていたのかと思うと、現在はのどかなこの風景も全く見え方が変わってきます。
石田三成陣跡
決戦地からほど近い石田三成陣跡へ向かいます。
幟が何本も立っています。
馬よけの柵が復元されていました。
少し階段を登ると石田三成陣跡がありました。
石田三成の陣であることを示す石碑。
陣からは関ケ原を一望できます。迫ってくる東軍、戦闘に相まみえる武士たちの姿が見えたことでしょう。
少し西側の眺めです。自軍の島津義弘や小西行長、宇喜多秀家、松尾山に陣をかまえた小早川秀秋の軍勢が見えたはず。
島津義弘陣跡
開戦地へ行く途中に島津義弘の陣跡があります。
このあたりも戦場だったのでしょう。夜に武者姿のオバケとかでないのかな。
ここが陣跡です。
島津義弘はまわりの西軍が戦っているのに、傍観をきめこんでいました。
そして西軍の負けが決定的になると、島津軍はあろうことか東軍の真ん中を駆け抜けて逃走しました。有名なエピソードらしいです。
開戦地
次は関ケ原の戦いの開戦地です。
この日はポカポカ陽気でウォーキング日和でした。
開戦地です。
北天満山を背にした西田運動広場の入口に、「開戦地」の大きな碑があります。合戦当日の朝、霧が薄くなったのをきっかけに松平・井伊隊が、先峰の福島隊の脇を通り抜け、宇喜多隊の前へ進出し発砲。
この井伊隊の抜け駆けに怒った福島正則が、宇喜多隊に対して一斉射撃を掛けたのがこの場所であるといわれています。
現在の標柱の位置は、圃場整備によって史跡指定時よりも約300m北に移動しています。またこの辺りは合戦場のほぼ中央にあたり、全域水田が広がり、近くに近代的建築物もないため、当時に思いをめぐらすには最適な場所です。この平地を武将たちが実際に駆け回ったと思うと感慨深いものがあります。
小西行長陣跡
開戦地の近くに小西行長陣跡があります。
小西行長は肥後宇土城主でキリシタン大名。戦いのあと敗走しますが、捕らえられて京都六条河原で石田三成らとともに斬首。
宇喜田秀家陣跡
宇喜多秀家陣跡に向かいます。
少し雪が残る伊吹山が見えました。
林の中の道を歩きます。
西軍で最も多い兵(17,000名)を率い、主力部隊として東軍と戦った宇喜多秀家。
東軍の福島正則軍のほか、西軍を裏切った小早川秀秋軍の攻撃を受けた宇喜多秀家の軍。大谷吉継と共に応戦しますが、健闘及ばず戦いに破れ秀家は敗走。
島津の治める鹿児島まで逃げますが、のちに島津から徳川へ引き渡されます。
しかし島津と前田利長の懇願もあって、死罪を免れ八丈島へ島流しとなります。
その後50年、秀家は84歳で亡くなるまで、八丈島でけっこう楽しく暮らしたらしい。
逆に宇喜多を攻撃した小早川秀秋は関ヶ原の戦いのときは19歳。関ケ原の2年後に秀秋は亡くなります。
他大名たちからの接待攻勢で、秀秋は7歳のころからアル中で、若くして肝臓に問題を抱えていたそうです。(戦国時代では珍しくないらしい)
西首塚跡
東首塚がありましたが、こちらは西首塚です。
こちらは実際にこんもりした塚がありました。掘り返したら出てくるのでしょうか?
まとめ
以上、一部ですが関ケ原の古戦場跡を歩きました。
私の思い込みかもしれませんが、関ヶ原というと全国的知名度はあるのにパッとしない観光スポットのイメージ。
しかし今回歩いてみて、記念館ができたことにあわせてでしょうか、陣跡などの説明看板や道案内看板もリニューアルされていて、なかなか魅力的になっていました。
来年の大河ドラマはマツジュンで徳川家康でしたっけ? 多くの観光客が関ケ原を訪れる受け入れ体制はできていると思います。
宿泊施設は弱いけど。