安倍元首相が撃たれた現場のある近鉄の大和西大寺駅は、私の帰省ルートのすぐ近くで、比較的なじみのある場所です。
愛知に帰る途中、阪奈道路を走っていて大和西大寺こっちの道路標識が何度が出てきたので、行ってみることにしました。
正直言って野次馬だと思います。😅
ちなみに本日は7月14日です。
平城宮跡周辺
まだ多くの人が駅前の現場に献花に訪れて混雑していると聞いていましたので、車を駅から1.6㎞ほど離れた平城宮跡遺構展示館横の無料駐車場に止めて歩くことにしました。
途中の佐紀池です。
西大寺の街なみが見えてきました。
大和西大寺駅
道路が混んでいます。やっぱり歩いてきて正解。
近鉄百貨店とイオンが入る商業施設の奈良ファミリーです。
事件に関連する標識でしょうか。
近づくにつれ胸が締め付けられるような気分がしてきました。
安倍さんに関する報道はどちらかというと遠ざけていましたが、事件発生時の映像を思い出してしまったからですね。
人が撃たれるシーンなんか見ても精神衛生上良くないです。
この先の人がたくさんいるあたりが現場です。
近鉄大和西大寺駅の駅舎です。
上から見ても多くの人が訪れています。
この日の雨が今にも降りそうな蒸し暑い天気と同じ、なんとも言えない重苦しい空気が漂います。
ガードレールのあるところが安倍首相が演説していたところですね。
テレビカメラを持った報道陣がまだいました。
弾丸が立体駐車場の外壁に穴を開けていたというニュースがありました。この駐車場ですね。
献花台です。お葬式と同じノーネクタイ姿の安倍元首相の写真が飾られていました。
ズラリと並ぶ献花を待つ人の列。隣接するイオンの中のお花屋さんで大量の花が売られていました。
私たちは献花はしませんでしたが、安倍元首相が倒れていたガードレールのところで、手をあわせました。私は心のなかで
安倍元首相、日本のために今までありがとうございました!
アベノマスク使えないとか、アホノミクスとかモリカケサクラとか、一億総活躍社会大きなお世話とか言ったりしてスミマセンでした。ブログの中でアベくん、シンゾー扱いしてスミマセンでした。💦
と、言いました。
安倍元首相は今後も人々の記憶に残ることでしょう。
佐紀高塚古墳(称徳・孝謙天皇陵
西大寺駅の北側は古墳や史跡の多いエリアです。気を取り直して歴史散策しようと思います。
佐紀高塚古墳(称徳・孝謙天皇陵)です。
佐紀高塚古墳(さきたかつかこふん)は、奈良県奈良市山陵町(みささぎちょう)にある古墳。形状は前方後円墳。佐紀盾列古墳群(西群)を構成する古墳の1つ。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「高野陵(たかののみささぎ)」として第48代称徳天皇(第46代孝謙天皇重祚)の陵に治定されている。
陵墓であることを示す石碑。
佐紀石塚山古墳
次の古墳へと向かいました。
住宅地の中の狭い道を進みます。
こちらも古墳です。佐紀石塚山古墳という前方後円墳の後円部にあたります。狭い堀が取り囲んでいます。
宮内庁管理を示す看板。
こちらが前方部にある拝所です。きれいに管理されています。
佐紀石塚山古墳(さきいしづかやまこふん)は、奈良県奈良市山陵町字御陵前にある古墳。形状は前方後円墳。佐紀盾列古墳群を構成する古墳の1つ。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「狭城盾列池後陵(さきのたたなみのいけじりのみささぎ、狹城盾列池後陵)」として第13代成務天皇の陵に治定されている。
佐紀陵山古墳
佐紀石塚山古墳と隣り合うようにあるのが佐紀陵山古墳です。
佐紀陵山古墳(さきみささぎやまこふん)は、奈良県奈良市山陵町にある古墳。形状は前方後円墳。佐紀盾列古墳群を構成する古墳の1つ。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「狭木之寺間陵(さきのてらまのみささぎ、狹木之寺間陵)」として第11代垂仁天皇皇后の日葉酢媛命の陵に治定されている。大正時代に盗掘事件が発生し、それに伴って当時としてはかなりの規模の調査が実施されたとされる。
古墳の築造は4世紀末とされているようです。(古墳時代は3世紀中ごろ~7世紀)
垂仁天皇はウィキペディアによると「実在すれば3世紀後半から4世紀前半の大王」と書いてありますが、実在したのかどうかもわからないんですね。
佐紀陵山古墳の南側にある八幡神社。
あたりは畑がひろがる長閑なエリアです。人がいると思ったら案山子でびっくり。だまされた。
佐紀神社
佐紀神社です。
大極殿が見える場所に戻ってきました。
途中に良い看板がありました。大和西大寺駅からいったん平城駅のほうへ北上し、おおよそ赤線のルートで現在地までやってきました。
平城天皇 楊梅陵(市庭古墳)
平城天皇楊梅陵(市庭古墳)です。
市庭古墳(いちにわこふん)は、奈良県奈良市佐紀町塚本・市庭にある古墳。形状は前方後円墳。佐紀盾列古墳群を構成する古墳の1つ。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「楊梅陵(やまもものみささぎ)」として第51代平城天皇の陵に治定されている。
佐紀盾列古墳群の東群に属し、その中でも西端に位置する。前方後円墳であるが前方部は消滅し、現在残っているのは後円部の一部のみである。
もともとはかなり巨大な前方後円墳だったそうですが、平城宮造営の時に前方部を削り取ってしまったらしい。
円墳にしか見えないですね。出土品の埴輪のタイプなどから5世紀前半の築造と考えられています。
平城(へいぜい)天皇は774年9月25日〈宝亀5年8月15日〉- 824年8月5日〈天長元年7月7日〉とされていますので、ずいぶん後の人ですね。
墓所として先にあった古墳を再利用したということ?
実際、平城天皇陵として疑わしいという説もあるようです。
宮内庁がこの陵墓は○○天皇のものと定めるわけですが、いろいろ怪しいものもかなりあるみたい。
陵墓の発掘調査が解禁されればいいのに。
平城宮跡遺構展示館
駐車場をお借りした平城宮跡遺構展示館です。
ボランティアガイドの方に平城宮跡についていろいろ解説していただきました。
当時の建物の柱跡です。平城宮が都として役割を終えた後、この辺りは1,000年間水田だったそうです。
水田だったためにこのような柱跡が土の下に保存されたそうですね。下手に町ができると掘られてしまって、このような跡は破壊されてしまうそうです。
本格的に発掘され始めたのは戦後になってからだそうです。土地も民間人が所有していたものを、発掘が進むに従い国が買い取り、現在の広大な平城宮跡の史跡が誕生しました。
その後、世界遺産にも指定されることとなったそうです。