ピーチのキャンペーンによる0泊セールの航空券で、沖縄に日帰りできています。沖縄旅行記はその1からその3と続き、今回のその4で最後となります。
玉陵(たまうどぅん)
首里城に隣接する玉陵にやってきました。
世界遺産、国宝指定で、そう言われるとお金を払っても見ておかないといけない、と思ってしまいます。
受付で300円支払います。
資料館
最初に受付にある地下の資料室を見学します。
玉陵は、1501年、尚真王が父尚円王の遺骨を改葬するために築かれ、その後、第二尚氏王統の陵墓となりました。墓室は三つに分かれ、中室は洗骨前の遺骸を安置する部屋となっています。創建当初の東室は洗骨後の王と王妃、西室には、墓前の庭の玉陵碑に記されている限られた家族が葬られました。
全体のつくりは、当時の板葺き屋根の宮殿を表した石造建造物になっています。墓域は2.442平方メートル。沖縄戦で大きな被害を受けましたが、1974年から3年余りの歳月をかけ、修復工事が行われ、往時の姿を取り戻して今日に至っています。
沖縄の葬送文化はかなり本土と違いますね。昔は風葬が一般的だったようです。玉陵には3つの部屋があり、中室はそのまま遺骸を安置、頃合いを見計らって洗骨の処理を行い、東室、西室に安置するようです。
並んでいるのは厨子甕(ずしかめ)で、本土でいう骨壺です。どれもサイズがでかいです。風葬だからそうなっちゃうんでしょうか。人間で最大の骨である大たい骨を納めるとしたら、このくらいは必要かと思われます。これが一族分あるとすれば沖縄の墓がやたらと大きいのも納得できます。
玉陵の西室か東室か忘れましたが、洗骨が終わった遺骨は厨子甕に入れられ部屋に移されます。これだけの数の一族の厨子甕が納められているんですね。あの世でも寂しくなさそうです。
こちらはもうひとつの部屋の様子です。
なお洗骨について、非常に気になるのでネットで調べてみました。葬儀業者のホームページに詳しく載っていましたので、引用させて頂きます。
洗骨について
日本でもかつて沖縄や奄美諸島あたりで、洗骨をする風習がありました。沖縄では「洗骨(シンクチ)」、奄美諸島では「改葬(カイソウ)」と呼ばれ、実は現在でも、一部の離島などでは、洗骨の風習が残っています。
これらの地域でも洗骨を実施する理由には違いがあるそうなのですが、主に「死者(洗う前の骨)はけがれているもので、神や仏の前に出られない」という信仰から、洗骨が行われているようです。
この「骨を洗う」という儀式は、琉球王朝の王室でも戦前まで執り行われていたという文書が伝えられています。
また、与論島では元々共同墓地で風葬を行うのが一般的でしたが、明治時代になり「風葬は死体遺棄罪に該当する」との理由から、風葬が廃止となりました。そのため土葬をしてから、3~7年後に遺体を掘り起こし、洗骨を行うという「洗骨葬」の形式に変化したといわれています。洗骨葬を行う頃合いは、地域や島ごとに違いがあるようですが、ほとんどの場合、七夕の日に実施されていました。
一般的な洗骨葬の流れ
では実際、洗骨葬はどのように執り行われていたのでしょうか。
沖縄の洗骨葬の場合では、洗骨の日になると遺族や故人関係者が集まり、まずはお墓を開ける前にお香をたきます。そして男性が中心となって土葬されている棺を取り出し、女性が棺のふたを開け、故人の親族の女性が遺体を焼酎などで洗い清めます。
万が一、骨に皮が付いている場合は、丁寧にはがしながら洗っていきます。その際、遺体が日差しに当たらないように、日傘や幕で日差しを遮ります。最後に、遺骨を甕に納めてお供え物を添え、洗骨の儀式は終わります。
洗骨後は、男性のみがお酒を飲むことができる宴会が行われ、女性は宴会の準備や参列者の接待、片づけをします。このように洗骨の儀式は、故人の肉親の女性や特に長男の嫁が行うものとされており、女性にとって残酷かつ過酷な儀式であったようです。
しかし、洗骨葬は衛生的にも問題があり、なおかつ身近な人の骨を洗うという残酷な風習であったため、沖縄県の女性解放運動と火葬の広がりも影響し、戦後には特定の地域以外、洗骨の風習は姿を消していきました。ですが、現在でも年配の人の中には、この形で葬儀を望む方がいるようです。
改葬や墓じまい、散骨する際に行われる「洗骨」
風習として実施される洗骨以外にも、納骨や改葬、墓じまいのためにお墓から骨壺を出した際に、汚れた遺骨を洗骨することがあります。
改葬に伴う洗骨
遺骨が汚れる原因としては、骨壺のふたが外れていた、骨壺が割れていた、土砂が流入した、雨水が骨壺に溜まっていたなど、さまざまです。
また、遺骨をさらしの袋に入れてお墓に納めていたり、お墓の中に直接撒く方法で納骨していたりすると、遺骨が土まみれになっている場合があります。これらの遺骨は、単に汚れているだけではなく、カビが生えている、湿っている、悪臭があるなど、衛生的にもよくありません。
一般的なお墓への引っ越しであれば洗骨の必要はないですが、納骨堂や永代供養墓などに遺骨を納め替える場合は、遺骨をきれいにし、乾燥させてから納めることが求められていることがあります。
散骨の準備で行う洗骨
さらに、お墓にある遺骨を散骨する場合も、粉骨の際に洗浄して乾燥させる必要があります。
比較的きれいな遺骨であれば、ご自身で洗骨することも可能ですが、洗骨に抵抗がある方や周りの目が気になる方、納骨堂や永代供養墓などに遺骨を納めようとしている場合であれば、専門の業者にお任せするのが望ましいでしょう。中には特殊な機械を駆使し、洗浄・乾燥以外にも、除菌や消臭処理を行ってくれる業者もあります。
以前、オンライン英会話でフィリピンの講師(セブ島)と話をしていた時、庶民は土葬ではなく遺体を棺に入れて、他の人の棺と一緒に積み重ね放置。頃合いをみて開けるとか言っていたような記憶があります。(その時はお祭り状態になるらしい)
洗骨があるかどうかわかりませんが、なんとなく似ているような気がします。
東の御番所(あがりぬうばんじゅ)
沖縄戦前までお墓を守る番人がここでお墓の管理をしていたそうです。
琉球王朝時代には墓参りに来た王様が休憩をしたところになるそうです。
玉陵
いよいよ玉陵です。
もうひとつ門があって、その内部にあります。
階段が3つあって、左から東室、中室、西室となります。かなりの大規模です。
どこかの東南アジアの遺跡のような気がしないでもありません。
入る時は大丈夫でしたが、帰る時にこの門で頭を打ちました。痛ッ~。(´;ω;`)ウゥゥ
チケット購入時に職員のかたから注意されていたんですが、すっかり忘れていました。マジで痛い。
金武町石畳道
玉陵から琉球王朝の迎賓館であった識名園へ向かいまいした。歩いて30分ほどの道のりのはずです。
首里城や玉陵は少し小高いところにあったんですね。
谷の底へと下っていきます。
ちょっと高級住宅地っぽいところを通りました。
金武町の石畳道にやってきました。自転車だとお尻が痛くなりそう。
首里城跡南側の斜面に続く約200mの古い石畳の坂道。赤瓦屋根の家並みとともに王朝時代の風情が残されています。県指定文化財。
(しゅりきんじょうちょういしだたみみち)
識名園に行くのは時間的な関係から諦めました。日帰り旅のつらいところ、というか帰りの飛行機に乗り遅れないように安全第一ですね。
30分ほど歩いて、ゆいれーるの安里駅付近までやってきました。
国際通り
時刻は4時40分。帰りの飛行機は午後8時15分発ですので、1時間前の午後7時過ぎには空港に着いておきたいところです。6時半くらいまで国際通りをブラブラして夕食を食べます。
牧志駅前のさいおんうふシーサー。高さ3.4m、重さ3トン。
国際通りに交わる平和通り商店街です。
第一牧志公設市場
夕食は第一牧志公設市場の2階で食べることにしました。
なぜか繁盛している店とお客さんのいない店との差が激しいです。歩いているとお客さんのいない店の店員さんの視線を感じます。
落ち着いたお客さんのいない店で食べることにしました。
オリオンビールです。妻はノンアルコール。帰りの中部空港から自宅までは妻に運転してもらうことにしました。
夏日の一日、たっぷり歩いたので冷たいビールが美味しいです。
沖縄そばです。
ゴーヤチャンプルー定食です。わりとコショウの効いているゴーヤチャンプルーです。
もずくとミニトマトのシークワーサー漬け、アーサーのてんぷらにゆし豆腐です。ごちそうさまでした。
空港へ戻ります
国際通りもだいぶ日が傾いてきました。本土より30分くらい日の入りが遅いような気がします。
沖縄土産の定番、御菓子御殿のお店。
すみません、トイレを借りただけで何も買っていません。
[rakuten:okinawa-kijimaya:10001040:detail]
お土産は別のお店で、雪塩サンドを買いました。自分でも食べましたが、これはかなりウマい。
県庁前駅からゆいれーるに乗車。
空港には予定よりちょっと早い午後6時45分につきました。
なかよしパン
空港の売店でぐしけんパンの「なかよしパンハーフ」を購入。
ハーフなのに悪魔の672Kcal。通常サイズはなんと1,347Kcal。ヤバすぎw