まーきちのお気楽生活

正社員からバイト暮らしを選んだ旅好きなおじさんの日記

グーグルマップを頼りに地元民もほとんど知らない地味スポットを訪ねてみました

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今日は豊田市駒新町にやってきました。逢妻男川と逢妻女川が合流する地点の北側になります。

 

川の手前は豊田市、向こう岸は知立市になります。

 

豊田市南西部に位置する駒新町。ちょっと高台になった雑木林の中に、明治時代に完成した煉瓦造りの「金山揚水」の遺構があります。

 

逢妻川の北側は台地状になっており、金山揚水が完成する前は、川が目の前にもあるのにも関わらず、水を引くことができないため農業もままならい状況でした。

 

水を引いて灌漑することは、このあたりの住人の悲願だったようです。

 

石碑にもそのことが書かれています。

 

揚水建設の中心となったのは、愛知県立農林学校(現在の安城農林高等学校)教頭の内藤乾蔵です。

 

イギリス製の蒸気機関と渦巻ポンプを用いて揚水することを思いつきました。

 

彼の計画に賛同した高岡村大字駒場(現・豊田市)、富士松村大字逢見(現・刈谷市)、知立町大字知立(現・知立市)の関係者により、明治44年(1911)6月に耕地整理組合が設立されました。

 

明治45年(1912)7月、幾多の難関を経て待望の水が水路を走りました。

 

うっそうとした木々に覆われた小さな山を登ってみます。途中、ジョロウグモの大きな巣がありました。通る人もまずいないでしょう。

 

ヘビとかでなきゃいいけどな。

 

遺物発見!当時のままの鉄の管だと思われます。

 

半分土の中に埋まってしまっています。

 

山の下と上を結ぶ管は2列ありました。

 

管の直径は30㎝はありそうです。

 

山の上にある金山揚水と刻まれた吐出口の遺構です。明治45年6月竣工と書かれているようです。

 

下からパイプを通って揚水された水はここに湧き出たようです。

 

鉄管が2系統ありあましたが、吐出口も2系統ありますね。上げられた水はここからこの先の土地を潤し、農地が開拓されていきました。

 

今はただの地面になっていますが、昔はここを流れる水路があって遠くまで水を運んでいたのでしょう。

 

雑木林を抜けました。金山揚水により、おそらく開発されたであろう農地です。駒新町金山地区です。

 

梨畑もありました。

 

梨の直売所もあります。こまくさ梨園さんです。

 

このあたり知立市逢妻町との境界付近になります。

 

金山揚水はその後愛知用水の完成により役目を終えることとなりました。

 

参考文献:近代の産業と暮らし発見館

http://www.toyota-hakken.com/pdf/20121214_exhi_info01.pdf